Nakamoto Masahiro on Kanagusuku Ufuchiku

Nakamoto Masahiro on Kanagusuku Shinsaburô (Kanagusuku Ufuchiku). In: 仲本政博:沖縄伝統古武道。概略と首里手系空手古武術達人の系譜。ゆい出版, 2007. Nakamoto Masahiro (1938-): Okinawa Dentô Kobudô. Gairyaku to Shurite-Kei Karate Kobujutsu Tetsujin no Keifu. Yuishuppan 2007. p. 198-200.

[There’s an English translation of this book by Miguel Da Luz of Okinawa Traditional Karate Liaison Bureau, too!]

金城真三良(金城大筑) 

金城真三良(一八三四~一九一六)カニーウスメー 金城大筑首里桃原村に生まれる。釵術の達人として有名。義村御殿の御前(ウメー)は、自分の息子、次男朝義と金城真三良に武術を伝授する。屋比久孟伝は特に金城翁の指導を受けた。明治四十年、中城村比嘉の喜納昌盛は、首里儀保に金城翁を訪れ、釵術の手ほどきを受けたという。

当時金城翁は七五歳くらいで、古物商を営んで居た。廃藩置県で王府廃止にともない大筑の職を失ったために、あるいは引越し後であったのか、当時の翁の生活は裕福ではなかったといわれていた。金城大筑は、「若し私の流儀を学ぶなら、私の流儀に対して批判したり、型をかってに訂正しては一切相成らん」と言った。武術をたしなむ人の心得として、「酒や煙草に愽打と喧嘩はまかりならん」とも伝えられている。金城大筑の最後の弟子である喜納昌盛は二十歳頃に金城大筑の門を叩き入門を願い出たが、一度は断られた。志を捨て切れずに二度三度と訪ねて、弟子入りを懇願し、とうとう入門を許されたという。五年に亘って、厳しい修行の中で、空手術、釵術、棒術などの秘伝を授けられる。

Nakamoto Masahiro

金城大筑の武術について喜納昌盛は、「金城大筑の教えは、武の極意は心にあるというものだった。古武術をする心は防衛であったも先制攻撃ではないことを大筑は常に言われた」とのことであり、武徳の精神を厳しく説く古武術の先覚者であり、大筑を語る回顧談としていた。金城大筑は、尚育・尚泰王時代、国王の護衛として江戸に上ってあり、その時天皇家に献上物の一つとして、沖縄の地馬があった。宮古馬・与那国馬等の小型馬は、コージャー馬小として察度王時代より一三七四年の冬、泰期を明国に通貢使として派遣して以来数回に渡り馬や硫黄などを明国皇帝に贈り喜ばれている。金城大筑は、江戸に上っている時、献上物の馬、コージャー馬小をつれて行くのである。その時、船で馬が餌を食わない場合には、金城大筑も食事はとらなかったとのことである。大筑は、井戸の周りに巻きワラを立てて、毎朝突いたり、水を汲んだり、重い石を持ったりしていたとのことである。酒はたしなまなかったが、祝座でお酒を勧め 200 られた時には、礼儀として杯を捧げて受けた。お茶はよく飲んでいたとのことである。食事は野菜が好物で、芋とカズラであり、カンダバーうぶさーであった。金城大筑は、孫娘の伊波キヨに、自分が死んだら、洗骨する時に、私の腰骨を見てごらんの言われたのである。(洗骨(しんこつ)、沖縄ではいったん墓地に処置した死骸を何年か後に洗骨して改葬する風習があった)大筑の腰骨はガッチリと嵌まっていたとのことである。普通の人間ははずれるが、腰が強い人は、腰骨は、しっかりして鍛錬の結果と思われるのである。大正五年十月十三日歿。丑年の人であった。 ※一九八三年九月十五日、首里桃原村に孫伊波キヨ、唯一なる肉親、明治三八年十月二六日生まれより聞き取り調査 ※名嘉真朝増より聞き取り調査 ※琉球新報(一九六一年十一月二六日)

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